虚 往 實 帰 ー 忘れえぬお遍路たち ー
「虚往實帰」 ー 忘れえぬお遍路たち ー
- 野地蔵に日傘さしかけ話しかけ ー
半世紀近く「お遍路」と共に過ごした日々を追想すると、我が人生の大半が走馬灯の如く蘇ってくる。 コロナ禍の中で、会えないお遍路さん達の笑顔が垣間見える。
古くは、終戦間近い幼少の頃、米軍爆撃機が上空に現れると、家族と境内の防空壕へ逃げ込んだ。 父親、叔父が出兵、父は指四本凍傷になり帰国、叔父は戦死した。 また、梵鐘は国に供出、石を吊っていた。 戦後、軍服姿で笈を背に数珠を持つ男性。 もんぺ姿に割烹着の女性が野辺の地蔵に合掌する姿は今も瞼に焼きついている。
ー 遍路みち母の優しき声思う ー
軍服姿の男性は、特攻隊の戦友の供養。 女性は、戦災で亡くなった母の思いを込め霊場を訪れた。
札所には巡拝中亡くなった遍路墓もある。
時は過ぎ、昭和50年頃から平成にかけては、明るいお遍路さんが多くなる。 多くの写経を札所に納め、集印で真赤な納経帳を持参していた。 宿の大広間で何百人の男女が地蔵の民謡を歌い、望郷の念を楽しむ姿が色濃く残っている。
私も法話を頼まれ、宿へ通った。
日常を離れた「同行二人」の旅は願いが叶えられ、幸せを運んでくれると信じたのだろう。 でなければ一年に何度も飽きずには巡れない。 心の世界を俯瞰する『遍路行』は、もう一つの人生と言える。
二十年程前の大師入定記念の年に、京仏師の制作した霊場会の修行大師をお連れし、各地の巡拝者三百人程で大師勉学の地、中国西安(古代長安)へ三度参拝。 その時、シルクロードで現地の人から母の供養のお経を尋ねられ、光明真言「オンアボキャベイロシャノウ・・・」と唱えた。 彼は今も真言を唱え供養しているとのこと。
かくて三度も西安へ参拝した事は、先達方が逆に寺院方を先導された熱い信仰の賜物であろう。
ー 一切を仏にまかせあり這えり ー
島出身の俳画家・赤松柳史氏の句碑が土庄港にある。 一切を仏に任せ、蟻が這うように多勢のお遍路が山野を歩く光景。
小豆島霊場の特長は、島民、札所、宿の人達との家族的なふれあい、一期一会が継承されている。
とりわけ、遥か昔より、数々の明暗の影を越え、島の寺院が各地へ出向き布教・伝道してきた姿に霊場の今があると言える。
私が過去数回巡った島の札所では、様々なお遍路さんと出会った。 地元の人からお接待を受け、楽しく巡っているバスの団体。 話すと明るいが、巡拝の動機を尋ねると、「子供が重い病気」との事。 また、家族間の悩み、人間関係など千差万別。 心の不安の救いをお大師さんに求め遍路行を続けている。
楽しい遍路行と御利益を受ける為、どれだけの忍苦を味わってきたか、これらは想像に難くない。
親交のある神戸の住職は、過去に島を五十回巡った事を懐かしむ。 今はご子息が巡っているが、朝の勤行で札所を思い出しつつ巡っているとの話には感慨を覚える。
ー 生は楽にあらず衆苦の聚まるところなり ー
この、弘法大師の言葉は、生きることは楽ではないが、あるかもしれない幸せより、今ある幸せを大切に、と述べられている。
また、『性霊集』にも‟虚往實帰“の名文を残された。「往く時は心の悩みが、帰る時には何かに気づき心の糧となるものを持ち帰る」。
心が狭量な人は、物事の不満を他人の所為にし、心の広い人は、自分の至らない事を補強する。遍路行はお大師様からの贈りもの。
どんな未来、明日が来るのかと、不安を感じる今、大師御生誕のご縁を機に‟鈴の音に幸せ求め島遍路“への模索の時でもあろう。
岡山の故先達の句で締め括りたい。
『有難き大師の心(こころ)身に受けて孫子跡継ぐ法の道かな』
季節の変わり目、皆様ご自愛を。
合掌
小豆島霊場会会長
保安寺 住職 宮 内 義 澄
※記事は小豆島霊場会『遍照』179号(令和3年9月30日)より。
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