弘法大師生誕1250年記念 - お大師様のご遺徳を伝えるために ー

 本年は宗祖弘法大師さまの、御生誕1250年、とりわけ50年に一度の節目の年に当たり、小豆島霊場では、各種記念事業を執り行います。
 昨年、晩秋の頃、三年振りに巡拝者各地区の先達団体長会議を開き、霊場会役員出席のもと、久しぶりに先達様との時をなつかしみ、楽しく過ごしました。紅葉の中、車窓から無常迅速なる月日に思いを馳せながら、御大師さまに“希望の灯る世”を祈りました。
 弘法大師は、宝亀五年(774)香川県善通寺市の佐伯家三男として生まれました。
 幼名は「真魚」といい、幼少から聡明だった大師は、15才の頃から母方の伯父、阿刀大足のもとで漢学・儒学を学び18才で京の都の大学に入学されましたが、当時の儒教中心の教育には満足出来ず、周囲の反対を押し切り大学を中退、四国に帰り、山野を歩き回りながら、仏道を学び始めます。
 一人の修行僧と出会い、山岳修行に伝わる『虚空蔵求聞持法』の秘法を授かりました。虚空蔵菩薩の真言(呪文)を百万遍唱えると、あらゆる経典を記憶し、理解出来る神秘の力が得られるというものです。
 ある日の夜明け、高知の室戸崎で真言を唱えていた時、明けの明星(金星)が大師に急接近し、口の中に飛び込んだといいます。
 弘法大師書『三教指帰』では、「明星来影す」と書かれ、この時の神秘体験により、出家を宣言しました。
 その後、仏道を極めるべく奈良の寺々を巡り、仏教のあらゆる教義、経典を学び尽くし、ある日『大日経』という密教の経典に出会います。「これこそが求めていたもの」と直感した大師は延暦23年(804)、遣唐使の留学僧として唐(中国)へ渡り、長安(現在の西安市)青龍寺で運命の師、恵果和尚と出会い、インドから伝わった密教を伝授され、20年の留学予定をわずか2年で切り上げ帰国を決意します。
日本出航時は4隻のうち大師の1隻だけが奇跡的に助かり、帰国時も、大海原の風雨の中無事に帰国。そして、それまでの仏教と全く異なる教義を持つ真言宗を開き、日本に密教文化を花開かせたのです。
大師は、語学、書、文芸、外交、土木技術、建築などの他、革新的な教育者としての面も持ち、水銀などの鉱脈を見つける能力も中国で学んだのです。
特に教育では、日本初の庶民教育学校『綜芸種智院』を開設し、身分を問わず子弟を受け入れ、授業料も教材費も無料という画期的な教育事業を行っています。生涯を通し、多数の著作や文書を残された宗教者は稀なのではないでしょうか。
天長元年(824)、京都では旱魃が続き、天皇に請われた大師が「請雨修法」(雨乞いの儀式)を行ったところ、大雨が三日三晩降り続いたということです。

 その後、疫病が流行した時にも修法を行い、疫病を終息させたのです。
そして、835年高野山に登り、入定(亡くなった事をさすが、真言宗では弘法大師は禅定に入ったまま生き続けている)されました。「虚空尽き衆生尽き涅槃尽きなば我が願いも尽きなん」- 自然がこわされ、人々もいなくなり教えもなくなってしまった時に、私の願いも尽きる。それまでは苦しんでいる人達を救い続ける ー という言葉を残されています。
小豆島霊場は、大師が生国の讃岐から京の都への途中立ち寄られたとされ、弘仁5年(814)に創始、八十八ヶ所創設は貞享3年(1686)とされる。時はうつろい季節は巡る。一笠一杖の遍路行で、悲しみ、苦しみ、喜び全てを受け入れていく事が自分自身、また先祖への恩返しでありましょう。
この勝縁に御参拝され、お大師さまからのお陰を受けられますよう、お祈り申し上げます。
                                 小豆島霊場会長 保安寺住職   宮内義澄


虚 往 實 帰 ー 忘れえぬお遍路たち ー

「虚往實帰」 ー 忘れえぬお遍路たち ー‎

‎ - 野地蔵に日傘さしかけ話しかけ ー‎

‎ 半世紀近く「お遍路」と共に過ごした日々を追想すると、我が人生の大半が走馬灯の如く蘇ってくる。 コロナ禍の中で、会えないお遍路さん達の笑顔が垣間見える。 ‎
‎ 古くは、終戦間近い幼少の頃、米軍爆撃機が上空に現れると、家族と境内の防空壕へ逃げ込んだ。 父親、叔父が出兵、父は指四本凍傷になり帰国、叔父は戦死した。 また、梵鐘は国に供出、石を吊っていた。 戦後、軍服姿で笈を背に数珠を持つ男性。 もんぺ姿に割烹着の女性が野辺の地蔵に合掌する姿は今も瞼に焼きついている。 ‎

‎ ー 遍路みち母の優しき声思う ー‎

‎ 軍服姿の男性は、特攻隊の戦友の供養。 女性は、戦災で亡くなった母の思いを込め霊場を訪れた。 ‎
‎ 札所には巡拝中亡くなった遍路墓もある。 ‎
‎ 時は過ぎ、昭和50年頃から平成にかけては、明るいお遍路さんが多くなる。 多くの写経を札所に納め、集印で真赤な納経帳を持参していた。 宿の大広間で何百人の男女が地蔵の民謡を歌い、望郷の念を楽しむ姿が色濃く残っている。 ‎
‎ 私も法話を頼まれ、宿へ通った。 ‎
‎ 日常を離れた「同行二人」の旅は願いが叶えられ、幸せを運んでくれると信じたのだろう。 でなければ一年に何度も飽きずには巡れない。 心の世界を俯瞰する『遍路行』は、もう一つの人生と言える。 ‎
‎ 二十年程前の大師入定記念の年に、京仏師の制作した霊場会の修行大師をお連れし、各地の巡拝者三百人程で大師勉学の地、中国西安(古代長安)へ三度参拝。 その時、シルクロードで現地の人から母の供養のお経を尋ねられ、光明真言「オンアボキャベイロシャノウ・・・」と唱えた。 彼は今も真言を唱え供養しているとのこと。 ‎
‎ かくて三度も西安へ参拝した事は、先達方が逆に寺院方を先導された熱い信仰の賜物であろう。 ‎

‎ ー 一切を仏にまかせあり這えり ー‎

‎ 島出身の俳画家・赤松柳史氏の句碑が土庄港にある。 一切を仏に任せ、蟻が這うように多勢のお遍路が山野を歩く光景。 ‎
‎ 小豆島霊場の特長は、島民、札所、宿の人達との家族的なふれあい、一期一会が継承されている。 ‎
‎ とりわけ、遥か昔より、数々の明暗の影を越え、島の寺院が各地へ出向き布教・伝道してきた姿に霊場の今があると言える。 ‎
‎ 私が過去数回巡った島の札所では、様々なお遍路さんと出会った。 地元の人からお接待を受け、楽しく巡っているバスの団体。 話すと明るいが、巡拝の動機を尋ねると、「子供が重い病気」との事。 また、家族間の悩み、人間関係など千差万別。 心の不安の救いをお大師さんに求め遍路行を続けている。 ‎
‎ 楽しい遍路行と御利益を受ける為、どれだけの忍苦を味わってきたか、これらは想像に難くない。 ‎
‎ 親交のある神戸の住職は、過去に島を五十回巡った事を懐かしむ。 今はご子息が巡っているが、朝の勤行で札所を思い出しつつ巡っているとの話には感慨を覚える。 ‎

‎ ー 生は楽にあらず衆苦の聚まるところなり ー‎

‎この、弘法大師の言葉は、生きることは楽ではないが、あるかもしれない幸せより、今ある幸せを大切に、と述べられている。
また、『性霊集』にも‟虚往實帰“の名文を残された。「往く時は心の悩みが、帰る時には何かに気づき心の糧となるものを持ち帰る」。‎
心が狭量な人は、物事の不満を他人の所為にし、心の広い人は、自分の至らない事を補強する。遍路行はお大師様からの贈りもの。
どんな未来、明日が来るのかと、不安を感じる今、大師御生誕のご縁を機に‟鈴の音に幸せ求め島遍路“への模索の時でもあろう。
岡山の故先達の句で締め括りたい。

『有難き大師の心(こころ)身に受けて孫子跡継ぐ法の道かな』

季節の変わり目、皆様ご自愛を。

                    合掌


      小豆島霊場会会長
        保安寺 住職  宮 内 義 澄

※記事は小豆島霊場会『遍照』179号(令和3年9月30日)より。 ‎

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コロナの一年、震災の十年――時を巡る断想――

 コロナの一年、震災の十年――時を巡る断想――

小豆島霊場第八番 常光寺住職   大林 實温

「コロナコロナでもう一年か。」「ホンマやな、自粛ばっかりでさすがにうんざりや。」「けどな、一日が過ぎていくの、メチャ早よ感じへんか?」「ぼくもそう思てた、この調子でいったら、あっという間にジジイやで。」友人と話していて、妙なところで気が合った。彼もコロナの日々が、かけ足で進んでいると感じていたのか。
コロナで苦しんだり頑張っている人たちから見れば、毎日のつらさを知らないで何をのんきな戯言をと、こっぴどく叱られそうだが、全くごもっとも。時の早さに驚き、とまどい、もったいなく思い、無為のおのれにバツの悪さを覚えつつも、一方で声高にはできないけれど、これはこれでいいのかも、と、持っていきようのないわだかまりを、やんわり慰めようとしている自分がいる。
しかし、なぜだ。世の常では、幸せな時や楽しい時間はあっという間で、苦しさやつらさは長く感じるのではなかったのか。
年を重ねたから一年が早くなったのだろうか。俗なたとえでは、十歳の子どもにとって一年は十分の一の重みだが、八十歳の人には八十分の一でしかない、という。話のつかみとしては面白いけれど、まるっきり鵜呑みにもできない。残された時間から逆算すれば、年長者の一年は子どもの一年よりもうんと重いはずだ。どうも数字に置き換えてしまうと、客観性というお墨付きを得たかのように、優劣とか高低を考えてしまう私たちの、物心ついた時からの忌まわしき習性が透けて見えてくる。
かのアインシュタインは「時間は相対的なものであり、観測者ごとに存在する」と言ったそうだ。文系脳では、彼の言説はとても歯が立たないが、意味ありげな言い回しである。時の長短の感覚は、快不快や年齢など、一人一人の置かれている状況で伸びたり縮んだりし、加えて、社会の変動からも影響を受ける極めて主観的な意識領域の現象であるという。たしかに、ひいきのサッカーチームのアディショナルタイムは、リードしている時には長く、負けている時は短い。空腹時のインスタントラーメンの三分は長いが、寒い朝ベッドから抜け出すまでの三分は短い。「時間とは、その場所にある時計で計られるもの」。ベロを出したアインシュタインのおどけた顔が浮かぶ。
でも、時間はなるほど主観的だとして、コロナに覆われた時間はどう理解すればいいのだろうか。アインシュタインに導かれて考えはじめたけれど、疑問はふくらんだままだ。

どうやらコロナの一年は、ステレオタイプの反応が当てはまらない何かがあるような気がしてきた。急速に心の有り様が変化していく未だ経験したことのない何かが。それは、ある物質が原子の組替えによって化学反応を起こし別の物質に変化するように、ある出来事が、個人の立場や環境の変化によって意味合いを変え、予想外の心象や、時には真逆の心象を形成するようなものだろうか。
コロナ時間が早く感じた理由の一つには、毎日代わり映えしない、「十年一日」のごとき単調な暮らしが続いているからだろう。地域の祭りやイベントごと、寺の行事はほとんど行えなかった。旅や食事に出ることもためらわれ、巣ごもり生活が続いていく。もちろん、コロナで生活が破壊されたり生存が脅かされたりする人もいて、そこには充分な共助公助の手が不可欠なことは言うまでもない。だが、私たちの多くは、さまざまな制約のもとで、ふと気づけばなんとかしのぎながら日常を過ごしている。ライフラインは保たれているし、衣食住もそこそこに確保されている。もう少し待てばワクチンの順番も回ってくるだろうとのほのかな期待もある。
心地よいはずもないが、かといって耐えられないわけではない。非日常が少しずつ、以前からそこにいたかのような顔をして日常と化してくるなかで、コロナの時間感覚は、この流れに沿いながら知らず知らず変化してきたのだろう。否定的な意味合いの「十年一日」が、肯定的な「日々是好日」に変わる。誤解を恐れず言えば、もしかしたら私自身は、コロナ禍で「日々是好日」を知り、体感しているのかとさえ思う。ここには私たち大衆の、逆境を乗り切るしたたかさと同時に、時代風潮に簡単に馴らされてしまうひ弱さが同居している。
そしてもう一つには、コロナで私たちの時間軸が麻痺しつつあるのかもしれないということだ。メディアの情報は繰り返され、虚実が飛び交い、微細になり、センセーショナルになっていく。そんな情報過多に私たちの感度は徐々に鈍くなる。コロナの広がりは現在進行形なのに、コロナ禍は慣れっこになって、皮肉にも私たちの意識から少しずつ後ろに遠ざかっていく。時は身近なほど長く、遠いほど短い。

改めて、過ぎていった年月を思う。
この一年の大きな変化は、やはり、巡拝のお遍路さんがほとんど来なくなってしまったことだ。小豆島の霊場は講組織での巡拝が主流なので、(コロナの)三密に加え、そろって読経する団体参拝が敬遠されるのは致し方ない。奥の院で護摩祈祷を行う回数もずいぶん減ってしまった。しかしこんなときだからこそ、少人数でも、また少ない添護摩でも、しっかりと勤めなければと、自身に課す。そうしたら、今までのにぎやかな勤行では忘れてしまっていた懐かしい感覚がよみがえる。
ひんやり薄暗い洞窟の中、祈願者と本尊の前で深呼吸する。磬子の響き、読経の声、太鼓の音、仏器がぶつかる金属音、護摩木のはぜる音、投じられた房花。ウバメガシ(当方ではバベと呼んでいる)を一房投げ入れると、油分が多いせいか、大きな音を立ててたちまち燃え尽きる。そして訪れる再びの静寂。真言宗は音の宗教なのかと感じる瞬間だ。
「最後にジューッという音がした時に、何かもやもやっとしていたものが消えたというか、軽くなったというか、すっきりした気分になりました」。初めて護摩を体験した一人の若者は、そんな感想を漏らした。彼のその時の心境は知るべくもないが、彼にとって、勤行前の静寂と後の静寂は、異なる世界になったのだろう。祈願者は、あるはずのない静寂の音に気づいたのかもしれない。
そして私には、仏器の音や蘇油の匂いが、加行時の揺れる心情を思い出させる。そうしてさらに、僧侶としての来し方をしばし振りかえる時となる。

あるいはまた、東日本大震災のこと。
ささいだけれど、忘れられない思い出。震災の年の五月、アンコールワットを訪れた。蒸し暑いシェムリアップの空港に降り立ち、空港施設に向かっていると、壁面に日本語と英語で書かれた横断幕が見える。「がんばれ、日本。Pray for Japan from Cambodia」。外国による支配や大虐殺の内戦を経て、まだ貧しく戦いの痕跡があちこちに残るカンボジアで、日本の震災に心を寄せる人々がいる。そんな国を日本人として観光するいくらかの罪悪感と、辛苦を経験したこの国の人々の心遣いとが、アンコール遺跡の光景とともに強く印象に残った。
そして後日、何気なくパスポートをめくっていたら、発行日が、”11 MAR 2011”となっているのに気づいた。思わず目を閉じて天を仰ぐ。大震災の断片的記憶が、印字された数字から、色彩を伴った鮮烈な光景として立ちのぼってくる。震災とアンコールはここでも繋がっていたのか。3.11のパスポートは、この日私が何を見、どう感じたか、被災した地域へ心を踏み入れていくパスポートでもあるようだった。
震災十年の節目を迎えようとしている。メディアではさまざまな人がいろいろな立場から、過ぎていった十年を振りかえり、現況を報告し、未来へ提言していくのだろう。虚心に耳を傾け、改めて心に刻む。そんな時間を過ごしたいと思う。

まもなく、この十年パスポートは期限切れだ。でも、あの日の感覚を定点観測するために、役に立たなくなったこのパスポートは、引き出しのどこかにそっとしまっておく。

(『六大新報』令和3年3月5日号より転載)


島開き法要 (令和3年1月21日)

例年、1月21日の初大師の日に、島外からの巡拝者を土庄港で出迎え、お迎え大師像と共に、僧侶、行者、御詠歌隊、巡拝者で霊場総本院まで約1キロの道のりを行道し、霊場総本院にて巡拝の安全を祈願する開白法要を厳修しておりますが、今年は新型コロナ感染対策の為行道は中止し、霊場総本院にて開白法要のみを行い、新型コロナウィルスの終息と巡拝者の健康と家内安全等を祈念いたしました。


当日の模様は、以下の新聞社、テレビ局のホームページにて視聴可能です。

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