巡拝者の投稿俳句

弘信大師会
  久保 若葉

・人生を 試す思いの 遍路道
・経唱え 我が人生の 遍路道(遍照172号掲載)
・棚田に 鐘の音響くや 遍路道
・ひたすらに 登る石段 遍路道
・古希になり 祖母の面影 遍路道
・山野めぐり 心の修行 寺院路
・我が人生 試す思いの 遍路道
・春日和 遍路回道に 若葉かな
・山路来て せせらぎ清 遍路橋(遍照172号掲載)
・春棚田 湧き水清き 遍路川
・遍路道 祈りこめつつ 地蔵さん
・思いやり 至れり尽くせり 遍路宿


ふれあいバス大巡行


去る10月6日(日)小豆島霊場会主催のふれあいバス大巡行が初めて開催されました。約60名、バス3台での賑やかなお参りでした。秋風を感じながら、また各札所では心のこもったお接待をいただき、参加者は充実したお参りをされていました。
次回は11月10日(日)です。次回も多数の方の参加お待ちしております。


巡拝者の声

兵庫県姫路市
姫路巡拝団 前会長
田中 啓子

「島の高嶺の岩陰に…」の歌を聞きながら、私が小豆島に初めてお参りをしたのは、昭和36年の春。6泊7日の徒歩巡礼でした。山を登り、谷を下り、足が腫れてしまいました。靴が履けなくなり、途中で藁草履を買いました。一足を予備に腰にぶら下げて遅れないように必死で歩きました。
遠くの山を見ると、白衣を着たお遍路さんで道が出来ていました。何とも言えない美しい眺めでした。岩をくり抜いた中にお不動様や仏様が祀られているのにも驚きました。お願いしておりました待望の男の子に恵まれ、それからは義父と3人の子どもと私の5人での小豆島巡礼になりました。本当に楽しく、子ども達にとってはまるで遠足のような巡礼でした。
ある時、団体長さんが「行きの船は虚しいが、帰りの船は充実の船や。」と、言われました。何も解らず、言葉だけが残りました。
昭和48年8月18日、次女が突然に亡くなりました。私は、「なんで。なんで。」を繰り返し、後を追って逝きたいと思っていました。そんな時、「貴方には残った2人の子どもとご主人が居るではありませんか。その人達の事を考えてあげて下さい。」と、友人に叱られました。
我に返った私は、亡くなった子どもの供養に徹しました。頭の中では供養の事で一杯でした。小豆島も休むことなく参拝させて頂きました。毎日が自分との葛藤でした。「反省、後悔」と自分を責めて居りました。そんな時、師匠に言われました。「毎日正しく、真面目に生きていれば必ず本尊は助けて下さる。困らせてはない。」「人を救って己が救われる。」と。色々なことを教えて下さいました。
ふり返ってみますと、たくさんの若い母親が、幼い子ども達を連れてお参りしておりました。ある時、子どもがいない事に気づいた母親が慌てて走って来られました。団体の最後を見ていた私がすぐに前のお寺に見に行きますと、他の団体の中で無邪気にローソンを立てていました。また、子ども同士が暴れて杖を傷つけてしまったこともありました。折れては大変と思い、次のお寺で供養をお願いしました。2日後に福田庵でその杖を見つけた時には本当に驚きました。置いてきた杖が先に来ているなんて…。不思議で有難く、心が熱くなったことなど、走馬灯のように浮かんできます。
84才になった今は、何も思うことなく、考えず、ただただ自然を見つめて居ります。美しく咲き誇る花を見れば、この花は今輝いているなぁと思い、萎んで今にも落ちそうな花を見れば、その花に自分の姿を重ね合わせています。何の不安もなく、お大師様、ご先祖様に全てをお任せして居ります。
これからは毎日を安心して、心穏やかに暮らさせて頂きます。
(遍照173号より抜粋)


般若心経のこころ

但馬三宝会代表 美方郡温泉町
善住寺 住職 山地 弘純

般若心経の中では「空(くう)」という言葉がたくさんでてきますが、これは数字でいう「ゼロ」のことです。「五蘊皆空」という一節を意訳すると「所詮あなたの思い込みですよ」と訳すことができると思いますし、その苦しみを生む自分の価値観や固定観念を手放し、その蓋を外すことで湧き上がる感情を手離していくことが、般若心経セラピーの醍醐味です。
私は他者からお悩みの相談を受けた際には、まず傾聴した後、次のことを問います。その原因は相手にはなく自分の内側にこそあるのです。それに自分が気づくためのプロセスなのだと思いますが、自分に向き合ってみようと思いますか?全てのものが実体なく変わりゆく諸行無常の世界で、あなたはなにに執着しているのですか?その執着し、滞っている「こうしなければならない」「こうあるべきだ」という自分の価値観・固定観念を流してあげれば苦から楽に変わりますよ。この世界においてしなければならないことなどなにもないのです。ですからあなたの思いを「こうしなくてもよい」「こうあらなくてよい」に変えることができますか?もしそこに強烈な抵抗があるとすれば、その許せない思いはどこからやってきたのかなと遡ってみると、過去の癒えていない心の傷が見つかったりするものですがいかがですか。
そうやっていくつもの相談を受けていた訳ですが、ある女性とのお話がとてもわかりやすい例になると思いますので紹介したいと思います。仕事上の愚痴を聞いてほしいということで、彼女は職場の同僚との関係性を中心に起こった出来事や自分の腹立たしい思いをいろいろと話してくれました。その中で私なりに話のポイントを整理すると、「感情的になるのはやめるべきだ。」「感情を態度に出してはダメだ。」「すぐ泣いて自分を被害者にするのは許せない。」「子供みたいにして大人気ない人はほんと大嫌い。」というキーワードが浮かび上がってきたのです。これが他者を通じて自分の内側から浮かび上がった「こうあらねば」「こうあるべき」という執着です。私は「感情的になってもいいじゃない。」「感情を態度に出してもいいじゃない。」「すぐ泣いて自分を被害者にしてもいいじゃない」「子供みたいにして大人げないふるまいをしてもいいじゃない。」というニュアンスのことをさりげなく言うと、「え~、それは許せない」と彼女は言いました。「その許せないって思いはどこから来るんだろう」と尋ねているうちに、彼女はぽつりと大切な過去の思い出を語り始めました。お父さんの虐待。それでもお父さんもいろいろあってかわいそうだからって自分がそれを受け入れてきたこと。おかあさんはすぐ泣いて被害者ぶっていてそれが嫌だったことも。どうやら子供のころから大人びていて、他者への共感力が高く、自分の思いよりお父さんの思いを大切に生きてきたのだということが窺えました。「そっか、彼女はあなたの真の望みを教えてくれたのかもしれないね」と私は彼女に伝えました。「ほんとはかなしかったんだよ~」「ほんとはそれを態度に出したかったんだよ~」「ほんとはお父さんのせいでってすぐ泣いて言いたかったんだよ~」「ほんとは大人ぶっていたけど、子供らしく表現したかったんだよ~」そんな彼女の叫びが聞こえてくるような気がしました。執着は本心の上にかぶせている蓋なんですね。「こうせねば」というねばねばの感情を「納豆感情」というそうですが、蓋をしたままだと本音が発酵してしまうのでしょう。「たしかに楽しいっていう表現はすごくしてきたけれど、悲しいっていう表現は抑え込んできたのかも。これからは両面を表現していきたいと思う」と最後に言ってくれた彼女のことは、これからも大切に見守っていこうと思います。
このように、1つの出来事があり、それをみなが同じように体験したのに、あの人は大して気にしていないけれど、自分はなぜかものすごく怒りが収まらない。みんなはほっとくことができているけれど、自分はどうにも一言言ってやらないと気が済まない。そんなこともあると思います。それは自分の中に怒りの種があるからです。怒りの下層部に何があるのかを丁寧に傾聴し、その蓋を外していくことで抑圧された感情を見つけることができるのだと知っておくといいですね。
次にそんな過去の傷つきを癒すことができるヒントが「不増不減」という一節にあります。得たものもあれば失ったものもあり、失ったものの影には必ず得ているものもあるというプラスマイナスゼロの「空」の視点です。スピリチュアルケアの講座の時にもこのようなワークがありました。「あなたは病気で健康というとても大きなものを失いました。しかし失ったものが大きければ大きいほど得ているものも大きいはずです。失ったものと引き換えに得ているものに意識を向けてみましょう」と。するとやっぱり見つかるわけですね。「家族の温かさが身に沁みました」「食べ物がなんでも食べれなくなったからこそ喉を通るもののありがたさがわかりました」「実は仕事が嫌で嫌でやめたいと思っていたのに実は病気になったおかげで叶っていました」などなど。まさにプラスマイナスゼロの般若心経の世界観だと感動したものでした。
彼女の場合、自分の心に問うのは本当に酷なことかもしれませんが、それでも探してみてほしいと思います。「虐待という自己の中で否定的になっている体験があったからこそ得ているというものはなんですか?」いつかそんなプラスが見つかりゼロになった時、過去は流せていくのだろうなと思います。信じて下さい。マイナスが大きければ大きいほど、プラスも大きいということを。
この世界はどんな世界でしょうか。それは自身の捉え方によっていかようにでも変えていけるのだということを「般若心経」は教えてくれます。「五蘊盛苦」つまり「思い通りにならなくて苦しい」という時にこそ、般若心経で片寄った心をゼロに解き明かしていくチャンスであることを皆さんには知っていただきたいです。
皆さんの見える世界が、自由に満ち溢れた世界でありますように
合掌
(遍照173号より抜粋)


灯に祈りをこめて ー過去・現在から未来へー


小豆島霊場会会長  
歓喜寺 河野宏宜

私たちの普段の生活の中には、昔から灯りがあり、灯は私たちの生活を明るく照らし、暖かさも与えてくれると共に、私たち人間の心にも安らぎをも与えてくれます。
昔から、火には魂が宿ると信じられ、お盆の迎え火に先祖の霊魂が宿り、先祖の霊魂が家に帰ってくると言われています。またお盆の終わりには送り火にて先祖を送るのがお盆の行事であります。だから多くの地域で火を使ったお盆の行事があります。有名なのは京都の大文字五山の送り火であります。
また、高野山では天長9年(832年)に弘法大師空海が長年の夢でもあった大法会を開催しました。それが「万灯萬華会」であり、万の灯明の光が仏の智恵となって私たち衆生を救い、万の花の香りが衆生の悟りの目を開かせるようにと願って開催した法会であります。
お大師さまが、この万灯万華会の法会にて読まれた願文(願いを神仏に誓い、神仏に捧げる文)のなかに、「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きん」と言われています。これは「万物が存在するこの宇宙が尽き果て、生きとし生けるものがみな解脱をえて仏となり、涅槃を求めるものが皆無になったとき、私の願いも終わる」という意味であります。お大師さまは1,200年も前にこのような大きなお心をもっておられたのかと思うと感慨深いものがあります。
このように、昔の人たちは、灯明のあかりに先祖の霊魂を思い、時には灯明の灯に仏の救いを求めたのであります。
小豆島霊場会では、お大師さまの時代から1,200年の年月を経て、今ここに新しい時代の「令和」を迎えるにあたり、来たる10月22日の「今上天皇即位礼正殿の儀」(今上天皇の即位を国内外に知らしめる行事)に合わせて、小豆島において「万灯会」を開催します。
この法会は、今上天皇の御即位奉祝法会であり、今上天皇の即位を祝うことはもとより、世界平和をはじめ国内の安泰、近年多発する自然災害の物故者の供養と災害地の早期復興祈願をはじめ、小豆島霊場巡拝物故者の供養、皆さまのお家の先祖供養、皆さまの諸願成就を祈願いたします。
皆さまには、過去と現在に感謝をして、未来の平和を願い、小豆島の地に平和の灯火を照らすローソクをご奉納いただき、暗闇の中で行われる灯明のあかりの中の幻想的な法会にお誘い合わせてお参りいただきたいと思います。
合 掌
(遍照173号より抜粋)