甲辰の年を迎えて

 元旦に起きた能登半島地震で被災された皆様へ、心よりお悔やみとお見舞い申し上げます。まだ予断を許さない大変な状況の中、不安な毎日を過ごされていることとお察しいたします。厳しい状況の中でも、希望を失わず、お互いに支えあい、一日も早く平穏な日常生活に戻れますよう願っております。


以下、年頭の挨拶に代え、小豆島霊場会『遍照』新年号の記事を転載いたします。

                          弘法大師御生誕1250年記念成満
                           ― 人生は遍路 同行二人 ―

                                                                        小豆島霊場会会長 
                                                                                                                              保安寺 住職 宮内義澄

 弘法大師ご生誕1250年記念も無事成満いたしました。霊場関係者の皆様には、写経、のぼり旗の奉納はじめ、記念法要にも御参加いただき誠に有難うございました。
 最近、写経が各地でブームになっています。お経の意味が分からなくても心静かに一字一句を写す ― その行為のうちに、ふだんあまり考えなかった過去・未来の自分に出会う違いありません。それは、心の奥底にある清らかな鏡に向かうことです。こういう自己の根源にふれる時間を持つ事が写経の功徳でしょう。
 私の寺でも毎月写経会がありますが、静かに写経してますと、鳥の鳴き声、木々が風に揺れる音が聞こえます。
 お大師様の言葉に「五大にみな響きあり~六塵悉く文字なり」とあります。あらゆる響きはすべて言語であり、一切は文字なり。また、すべて「マンダラ(曼荼羅)」であるといわれます。マンダラとは、本質を持つもの、悟りの世界で、宇宙、仏、霊場もマンダラなのです。
 また、写経中に鈴の音や梵鐘の音も聞こえます。お遍路さんです。先日、イスラエルから一人の男性遍路が参拝されました。今、疫病をはじめ気候の変動と共に戦禍が世界各地で起きています。残された家族の無事を祈り、島霊場をめぐっているのだと想像しました。
 また、以前鳥取からの巡拝者がこんな話をされました。「周りの人から孤立しています。誰も私に手を差し伸べてくれません」。
 私はこんな返答をした覚えがあります。「自分以外の人との『つながり』が切れてしまうのはつらいものです。そんな時には、誰かが手を差し伸べてくれるのを待つのではなく、自分の方から動いてみては・・・。するとそこに新しい『つながり』が生まれます。人は人を必要としています。あなたとの出会いを待っている人がきっといます。それは島の人たちを始めお大師様です」と話した事が、まだ記憶に色濃く残っています。
 小豆島霊場は、祈りと願いの霊場です。宗教の違いは関係なく、また、檀家は葬儀・供養などを親寺(檀那寺)でされますが、巡拝遍路は何宗でも、違った宗教の方でもお巡りされます。よくその事について尋ねられますが、巡拝はお大師様と二人連れ、笠に「同行二人」、「金剛杖」や腰に「鈴」を付けて巡ります。
 「一切を仏にまかせ、あり這えり」。故・赤松柳史氏(俳画家)の句が、島の港にあります。この句のとおり、一切をお大師様にお任せし、多くの遍路が蟻の如く歩く姿です。
 長く起伏の多いこの人生に「大師と共に」の同行二人の信仰を持ちつつ生きていきたいものです。一人で悩まず、お大師様にお任せすることほど心強い事はありません。人生は遍路です。
 島の霊場には「あな嬉し、ゆくもかえるも留まるも、われは大師と二人づれなり」と、但馬地方のお遍路さんの石碑が札所ごろに建っています。
 自分が仏様なんだ、と思う事でこの世が楽しく生きられます。また、大らかに、こだわりなく生きられます。
 それがお大師様のつくられた霊場、遍路行のご利益です。
 御大師様ご生誕の祈りと願いが届いて、平和な世界になりますよう、また、一月(正月)は一度止まると書きます。どうぞ一度止まって自分を見つめ、いい日々をお過ごし下さい。霊場寺院、協会一同、皆様との再会をお待ちしております。                                                                  合掌


霜月 大師市








12月21日に小豆島霊場第58番札所西光寺の門前の銀杏通りで大師市が開催されました。21日は弘法大師の月命日に当たり、大師市は弘法大師への報恩感謝の行事として毎年4月21日と12月21日に開催されます。大正3年の春から現在に至り100年以上も続く行事で、今では小豆島の春と冬の風物詩になっております。
今年の冬の大師市は、最強寒波の襲来とともに、早朝より強風が吹き荒れ、人出の少なさを心配しておりました。しかし、当日では、寒さにも風にも負けず、たくさんの方が家族連れ立って、西光寺の山門で鐘を撞き、参拝に訪れました。大師市当日、西光寺の本堂では、合計三座の護摩が修され、皆様の家内安全、身体健康、平穏無事を祈願しております。護摩を修し、読経の声が響く本堂では、くじ引きで当たりくじを引き、歓喜する声もまた次々と聞こえてきます。そして、その間にも多くの善男善女がロウソクを献灯し、家族の安全、健康を真剣な眼差しで祈願する姿が見られます。
新型コロナウイルス感染症の感染拡大以前では、西光寺境内では、お接待が行われていました。地元の有志の主婦たちにより、冬はおぜんざい、春はところ天が振舞われ、参拝の帰りにおぜんざいやところ天を食べながら家族、友人と談笑していた光景がよく見られました。現在では、感染防止のためお接待は中止となっておりますが、復活を心待ちしております。
一方で、今年の春より西光寺山門からの餅投げが復活されました。集まった皆様は、縁起物のお餅を一個でも多くキャッチすべく、手のひら、カバンを大きく広げて空に舞うお餅にめがけて突進し、山門前は大盛り上がりでした。そして、春も冬も小豆島のゆるキャラのオリーブしまちゃんが応援に駆けつけ、子供はもちろん大人も一緒に写真を撮ったりして、門前はとても楽しい雰囲気でした。
 そして、門前通りでは、地元の農産品や料理の屋台が並び、これもまた大師市のお楽しみ。冬もタコ飯、骨付き鶏、ベビーカステラ、台湾料理、焼きそばなどの出店があり、きっと多くの参拝客が舌鼓を打ちながら帰路についたことでしょう。
 次の大師市の開催は令和6年4月21日です。小豆島の心地よい春の風と太陽の光を浴びながら、小豆島の伝統行事、春の大師市を訪れてみませんか。

第58番西光寺僧侶 南野明章


弘法大師生誕1250年記念 - お大師様のご遺徳を伝えるために ー

 本年は宗祖弘法大師さまの、御生誕1250年、とりわけ50年に一度の節目の年に当たり、小豆島霊場では、各種記念事業を執り行います。
 昨年、晩秋の頃、三年振りに巡拝者各地区の先達団体長会議を開き、霊場会役員出席のもと、久しぶりに先達様との時をなつかしみ、楽しく過ごしました。紅葉の中、車窓から無常迅速なる月日に思いを馳せながら、御大師さまに“希望の灯る世”を祈りました。
 弘法大師は、宝亀五年(774)香川県善通寺市の佐伯家三男として生まれました。
 幼名は「真魚」といい、幼少から聡明だった大師は、15才の頃から母方の伯父、阿刀大足のもとで漢学・儒学を学び18才で京の都の大学に入学されましたが、当時の儒教中心の教育には満足出来ず、周囲の反対を押し切り大学を中退、四国に帰り、山野を歩き回りながら、仏道を学び始めます。
 一人の修行僧と出会い、山岳修行に伝わる『虚空蔵求聞持法』の秘法を授かりました。虚空蔵菩薩の真言(呪文)を百万遍唱えると、あらゆる経典を記憶し、理解出来る神秘の力が得られるというものです。
 ある日の夜明け、高知の室戸崎で真言を唱えていた時、明けの明星(金星)が大師に急接近し、口の中に飛び込んだといいます。
 弘法大師書『三教指帰』では、「明星来影す」と書かれ、この時の神秘体験により、出家を宣言しました。
 その後、仏道を極めるべく奈良の寺々を巡り、仏教のあらゆる教義、経典を学び尽くし、ある日『大日経』という密教の経典に出会います。「これこそが求めていたもの」と直感した大師は延暦23年(804)、遣唐使の留学僧として唐(中国)へ渡り、長安(現在の西安市)青龍寺で運命の師、恵果和尚と出会い、インドから伝わった密教を伝授され、20年の留学予定をわずか2年で切り上げ帰国を決意します。
日本出航時は4隻のうち大師の1隻だけが奇跡的に助かり、帰国時も、大海原の風雨の中無事に帰国。そして、それまでの仏教と全く異なる教義を持つ真言宗を開き、日本に密教文化を花開かせたのです。
大師は、語学、書、文芸、外交、土木技術、建築などの他、革新的な教育者としての面も持ち、水銀などの鉱脈を見つける能力も中国で学んだのです。
特に教育では、日本初の庶民教育学校『綜芸種智院』を開設し、身分を問わず子弟を受け入れ、授業料も教材費も無料という画期的な教育事業を行っています。生涯を通し、多数の著作や文書を残された宗教者は稀なのではないでしょうか。
天長元年(824)、京都では旱魃が続き、天皇に請われた大師が「請雨修法」(雨乞いの儀式)を行ったところ、大雨が三日三晩降り続いたということです。

 その後、疫病が流行した時にも修法を行い、疫病を終息させたのです。
そして、835年高野山に登り、入定(亡くなった事をさすが、真言宗では弘法大師は禅定に入ったまま生き続けている)されました。「虚空尽き衆生尽き涅槃尽きなば我が願いも尽きなん」- 自然がこわされ、人々もいなくなり教えもなくなってしまった時に、私の願いも尽きる。それまでは苦しんでいる人達を救い続ける ー という言葉を残されています。
小豆島霊場は、大師が生国の讃岐から京の都への途中立ち寄られたとされ、弘仁5年(814)に創始、八十八ヶ所創設は貞享3年(1686)とされる。時はうつろい季節は巡る。一笠一杖の遍路行で、悲しみ、苦しみ、喜び全てを受け入れていく事が自分自身、また先祖への恩返しでありましょう。
この勝縁に御参拝され、お大師さまからのお陰を受けられますよう、お祈り申し上げます。
                                 小豆島霊場会長 保安寺住職   宮内義澄


虚 往 實 帰 ー 忘れえぬお遍路たち ー

「虚往實帰」 ー 忘れえぬお遍路たち ー‎

‎ - 野地蔵に日傘さしかけ話しかけ ー‎

‎ 半世紀近く「お遍路」と共に過ごした日々を追想すると、我が人生の大半が走馬灯の如く蘇ってくる。 コロナ禍の中で、会えないお遍路さん達の笑顔が垣間見える。 ‎
‎ 古くは、終戦間近い幼少の頃、米軍爆撃機が上空に現れると、家族と境内の防空壕へ逃げ込んだ。 父親、叔父が出兵、父は指四本凍傷になり帰国、叔父は戦死した。 また、梵鐘は国に供出、石を吊っていた。 戦後、軍服姿で笈を背に数珠を持つ男性。 もんぺ姿に割烹着の女性が野辺の地蔵に合掌する姿は今も瞼に焼きついている。 ‎

‎ ー 遍路みち母の優しき声思う ー‎

‎ 軍服姿の男性は、特攻隊の戦友の供養。 女性は、戦災で亡くなった母の思いを込め霊場を訪れた。 ‎
‎ 札所には巡拝中亡くなった遍路墓もある。 ‎
‎ 時は過ぎ、昭和50年頃から平成にかけては、明るいお遍路さんが多くなる。 多くの写経を札所に納め、集印で真赤な納経帳を持参していた。 宿の大広間で何百人の男女が地蔵の民謡を歌い、望郷の念を楽しむ姿が色濃く残っている。 ‎
‎ 私も法話を頼まれ、宿へ通った。 ‎
‎ 日常を離れた「同行二人」の旅は願いが叶えられ、幸せを運んでくれると信じたのだろう。 でなければ一年に何度も飽きずには巡れない。 心の世界を俯瞰する『遍路行』は、もう一つの人生と言える。 ‎
‎ 二十年程前の大師入定記念の年に、京仏師の制作した霊場会の修行大師をお連れし、各地の巡拝者三百人程で大師勉学の地、中国西安(古代長安)へ三度参拝。 その時、シルクロードで現地の人から母の供養のお経を尋ねられ、光明真言「オンアボキャベイロシャノウ・・・」と唱えた。 彼は今も真言を唱え供養しているとのこと。 ‎
‎ かくて三度も西安へ参拝した事は、先達方が逆に寺院方を先導された熱い信仰の賜物であろう。 ‎

‎ ー 一切を仏にまかせあり這えり ー‎

‎ 島出身の俳画家・赤松柳史氏の句碑が土庄港にある。 一切を仏に任せ、蟻が這うように多勢のお遍路が山野を歩く光景。 ‎
‎ 小豆島霊場の特長は、島民、札所、宿の人達との家族的なふれあい、一期一会が継承されている。 ‎
‎ とりわけ、遥か昔より、数々の明暗の影を越え、島の寺院が各地へ出向き布教・伝道してきた姿に霊場の今があると言える。 ‎
‎ 私が過去数回巡った島の札所では、様々なお遍路さんと出会った。 地元の人からお接待を受け、楽しく巡っているバスの団体。 話すと明るいが、巡拝の動機を尋ねると、「子供が重い病気」との事。 また、家族間の悩み、人間関係など千差万別。 心の不安の救いをお大師さんに求め遍路行を続けている。 ‎
‎ 楽しい遍路行と御利益を受ける為、どれだけの忍苦を味わってきたか、これらは想像に難くない。 ‎
‎ 親交のある神戸の住職は、過去に島を五十回巡った事を懐かしむ。 今はご子息が巡っているが、朝の勤行で札所を思い出しつつ巡っているとの話には感慨を覚える。 ‎

‎ ー 生は楽にあらず衆苦の聚まるところなり ー‎

‎この、弘法大師の言葉は、生きることは楽ではないが、あるかもしれない幸せより、今ある幸せを大切に、と述べられている。
また、『性霊集』にも‟虚往實帰“の名文を残された。「往く時は心の悩みが、帰る時には何かに気づき心の糧となるものを持ち帰る」。‎
心が狭量な人は、物事の不満を他人の所為にし、心の広い人は、自分の至らない事を補強する。遍路行はお大師様からの贈りもの。
どんな未来、明日が来るのかと、不安を感じる今、大師御生誕のご縁を機に‟鈴の音に幸せ求め島遍路“への模索の時でもあろう。
岡山の故先達の句で締め括りたい。

『有難き大師の心(こころ)身に受けて孫子跡継ぐ法の道かな』

季節の変わり目、皆様ご自愛を。

                    合掌


      小豆島霊場会会長
        保安寺 住職  宮 内 義 澄

※記事は小豆島霊場会『遍照』179号(令和3年9月30日)より。 ‎

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