巡拝者の声

兵庫県姫路市
姫路巡拝団 前会長
田中 啓子

「島の高嶺の岩陰に…」の歌を聞きながら、私が小豆島に初めてお参りをしたのは、昭和36年の春。6泊7日の徒歩巡礼でした。山を登り、谷を下り、足が腫れてしまいました。靴が履けなくなり、途中で藁草履を買いました。一足を予備に腰にぶら下げて遅れないように必死で歩きました。
遠くの山を見ると、白衣を着たお遍路さんで道が出来ていました。何とも言えない美しい眺めでした。岩をくり抜いた中にお不動様や仏様が祀られているのにも驚きました。お願いしておりました待望の男の子に恵まれ、それからは義父と3人の子どもと私の5人での小豆島巡礼になりました。本当に楽しく、子ども達にとってはまるで遠足のような巡礼でした。
ある時、団体長さんが「行きの船は虚しいが、帰りの船は充実の船や。」と、言われました。何も解らず、言葉だけが残りました。
昭和48年8月18日、次女が突然に亡くなりました。私は、「なんで。なんで。」を繰り返し、後を追って逝きたいと思っていました。そんな時、「貴方には残った2人の子どもとご主人が居るではありませんか。その人達の事を考えてあげて下さい。」と、友人に叱られました。
我に返った私は、亡くなった子どもの供養に徹しました。頭の中では供養の事で一杯でした。小豆島も休むことなく参拝させて頂きました。毎日が自分との葛藤でした。「反省、後悔」と自分を責めて居りました。そんな時、師匠に言われました。「毎日正しく、真面目に生きていれば必ず本尊は助けて下さる。困らせてはない。」「人を救って己が救われる。」と。色々なことを教えて下さいました。
ふり返ってみますと、たくさんの若い母親が、幼い子ども達を連れてお参りしておりました。ある時、子どもがいない事に気づいた母親が慌てて走って来られました。団体の最後を見ていた私がすぐに前のお寺に見に行きますと、他の団体の中で無邪気にローソンを立てていました。また、子ども同士が暴れて杖を傷つけてしまったこともありました。折れては大変と思い、次のお寺で供養をお願いしました。2日後に福田庵でその杖を見つけた時には本当に驚きました。置いてきた杖が先に来ているなんて…。不思議で有難く、心が熱くなったことなど、走馬灯のように浮かんできます。
84才になった今は、何も思うことなく、考えず、ただただ自然を見つめて居ります。美しく咲き誇る花を見れば、この花は今輝いているなぁと思い、萎んで今にも落ちそうな花を見れば、その花に自分の姿を重ね合わせています。何の不安もなく、お大師様、ご先祖様に全てをお任せして居ります。
これからは毎日を安心して、心穏やかに暮らさせて頂きます。
(遍照173号より抜粋)